ミャンマーに渡ったクメールの青銅像 INDEX HOME



■ アンコール王朝の終焉と残された青銅像






ヴィシュヌ神の青銅像(ブロンズ像)

周達観が「真臘風土記」に記した仏陀像(実際にはヴィシュヌ神像)が、1938年に西バライの中央にある西メボン寺院から発見された。

この、横たわるヴィシュヌ神像は最低6メートル以上もあった青銅像で、東南アジアでは最大級である。青銅像は部分的に鋳造され、眉、目、口ひげは貴金属で象嵌されていた。

前項のミャンマーに渡ったクメールの青銅像も同じ場所にあったと考えられている。





アンコール王朝の終焉

シャムの(タイ)侵攻

1350年ごろから1430年ごろにかけて、アンコール朝とアユタヤ朝との間には頻繁に戦闘が起こっていた。後に書かれた「カンボジア王朝年代記」に、シャム軍によるアンコール都城への侵略と占拠が2回(1352年・1392年)あったと記されている。

放棄されたアンコール都城

定説では1431年ごろ、カンボジア王はアンコール都城を放棄した。新たな都城は125キロ離れたトンレサップ湖の南スレイサントール(バサン)に造営された。次第に脅威を増すシャムから遠ざかるためである。

詳しくはわかっていないが、シャムの侵攻による混乱の中で移動したのだろう。シャムにより、アンコール都城は略奪され荒廃した。

「カンボジア王朝年代記」には、アンコールを制圧したシャム王はクメールの高官に、大建造物の由来、歴史、建築の目的を尋ねた。そして、金、銀、銅、貴石の仏像、雄牛像、動物像を運び出させた。また、僧や6万もの家族をシャムに連行した。

1431年ごろシャム王の持ち去った戦利品の美術品は、アンコール王朝の権威の象徴で、日本の天皇家の「三種の神器」といえよう。その事はビルマ人も心得ていて、1564年にモン族の王バイナウンがアユタヤに攻め込み、青銅像をバゴーに持ち帰った。

そして、その後も各王朝の間を変遷した青銅像は、1784年マンダレーのマハムニパゴダに安住の地を得た。








その他にあるクメールの青銅像

ミャンマーのマンダレーにあるマハムニパゴダの青銅像の様に大きなクメールの青銅像はカンボジア国内には上記の「ヴィシュヌ神」しかない。大部分は数十センチの高さのものであり、マハムニパゴダの青銅像がいかに価値のあるものかが、お分かりになろう。

下記に、カンボジア、タイ、日本のクメールの青銅像の写真をアップする。タイの青銅像に限っては2メートル近いものがあるが状態は良くない。


■カンボジア国立博物館所蔵の青銅像

荘厳された仏陀像 ひざまずく女性像 ヴィシュヌ像
12世紀後半、アンコールワット 12世紀前半、アンコールトム・バイヨン 12世紀前半、カピラプラ
79センチと大きな像である 34センチ 43センチ


■タイの国立博物館所蔵の青銅像

ピマーイ国立博物館 スリン国立博物館
シヴァ神像 ブラフマー神像
11世紀、バブーオン様式 不明
186センチ 180センチぐらい


■東京国立博物館所蔵の青銅像

ヴィシュヌとガルーダ像 ウマー立像 ハヌマーン立像
12~13世紀 12~13世紀 12~13世紀
数十センチ 数十センチ 数十センチ



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