■施療院の呼び方
ルイ・フィノ(Louis Finot)は、Bhaishajyaguru(治癒の神)に捧げられた建物と呼んだ。
Arogayasala(アーロギャーシャーラ、病院の家)又はKuti Ruesi 、Kuti Rishi(クティルースィー、サンスクリット語で仙人の小屋)と呼ばれる。地域の怪我人や病人、心と体のケアを必要とするための施設で、施療院は病人が入院できる「病院」か「診療所」だったかは判明しない。
この種類の建造物の特徴はPhra Bhaishajyaguru Vaithourayaprapha ヴイシャジュヤグラ(癒し手であることを示す水の入った器を持った瞑想姿勢の仏像)が奥に収められている。
施療院は、砂岩やラテライトの建物が残っており、礼拝をした祠堂や経蔵と考えられる。しかし、治療を施したと思われる建物は木造建築だったと思われるが、現在残っていない。
■施療院の存在数
タプローム碑文(1186年)の117節によると、ジャヤヴァルマン7世は領土内の整備の一環として各地に施療院を配置した。国内に102ヶ所の施療院(アーロギャーシャーラ)、文字通り「病院の家」があった。現在そのうちの33ヶ所の所在位置が判明している。内訳はカンボジアに18棟、タイに15棟。
施療院から、規則に関するサンスクリット語碑文が20ヶ所見つかり、どのように機能していたか把握できる。
ピマーイ碑文から、施療院は4区分に別れ、第一の区分の施設はアンコールトム都城の近くの4施設で従事していた人数は約200人、第二の区分の施設は第一の区分に準ずる。第三の区分の従業員は98名、第四の区分の従業員は50名だった。
施療院に対し、王は年3回にわたり、36種類の薬石・薬草を供与していた。
イサーンにおける施療院の現存遺構は19棟確認されている。その分布は広範囲にわたっているが、アンコール、ピマーイ間の王道周辺に5棟確認されている。
■施療院の構造
施療院は主祠堂、経蔵?、塔門、周壁、バライからなる小規模の伽藍である。伽藍は東面し、主軸上には塔門、主祠堂が位置し、塔門から低い周壁がまわる。主祠堂と塔門の間には経蔵?が配置され、伽藍の北東側にはラテライトで護岸されたバライが設けられている。
これらの構成は、施療院とみなされる遺構の典型的な構成である。主材料はラテライトだが主祠堂の一部には砂岩が用いられている。主祠堂や塔門の前面にはテラスが設けられ、一部に木造建物の存在を示す痕跡も見られた事から、施療のための建物は敷地内の別の木造建築だったと考えられる。
また、伽藍の主軸を北側に寄せて主軸に対して南側を広くした事例や、祠堂や経蔵?の南側だけ窓を設けた事例などがある。南側に窓を設ける手法は宿駅と共通しており、王道との関連がうかがえる。
*経蔵?…一般的に「経蔵」といわれているが、聖水を流すソーマスートラを設けた事例(Ban Khok Mueang)もあるために、現時点で「経蔵」と断定はできない。 |