まぐさ石(リンテル・Lintel)について INDEX HOME



■ クメールの「まぐさ石」について


クメール遺跡に「嵌った」一つの要因に、クメール独特の「まぐさ石彫刻」の面白さがあげられる。


クメール文明の創成期を占める「扶南」は、紀元1~2世紀より7世紀ごろまで王国を築いた。その都だったアンコールボレイに残された遺物からは、インドのグプタ朝の影響がうかがえる。

ベトナム歴史博物館に陳列された扶南の遺物


また、サンボールプレイクック様式(7世紀)のまぐさ石に見られる神獣マカラのモチーフは、インドのアジャンタ石窟(5世紀後半)に用いられており、やはり源流をインドに見出す事が出来る。

サンボールプレイクック様式のまぐさ石、チャムパサック歴史博物館蔵

インドのアジャンタ石窟、第6窟


そのインド建築において、建物の入口には枠状の開口部をつくるが、クメール建築の様に「まぐさ石」を入口に挿入し、上部を支える工法は取らない。まさに、「まぐさ石彫刻」はクメール独特の建築様式であるといえる。

「まぐさ石彫刻」からはクメール文明の年代が推測でき、繁栄と終焉の歴史が汲み取れる。まさに、「まぐさ石彫刻」の美術様式の変遷はクメール文明の歴史そのものといえるだろう。





1、文字と書物

9世紀から13世紀にかけて栄えたクメール文明は「文字」を持っていた。しかし、15世紀にアンコール王都が放棄された後、獣皮や椰子紙などに書かれていた「経典」や「王朝年代記」などの書物の維持・管理は行なわれなかった。

そして、カンボジアの高温多湿の気候により、貴重な書物は朽ち果ててしまったと言われている。


2、碑文

アンコール王朝を創り出したクメール人の書いた「文字」は、寺院の石壁や石柱に刻まれた「碑文」しか残っていない。現在までに発見された碑文は約1300程あり、フランス人碑文学者(リイ・フィノ、ジョルジュ・セデス、サヴェロス・プウなど)により解読され、目録が作られている。

しかし、碑文の多くは寄進文などが主で、研究資料としての史実や年代などに関連した内容は少ない。


3、外国の書物

中国の歴史書「梁書」や「随書」、中国人の周達観が1296年から1297年にアンコール王都に滞在して書いた見聞録の「真臘風土記」。さらに、16世紀以降のヨーロッパ人宣教師などの書いた文献がある。


4、まぐさ石彫刻の重要な役割

こうした事情から、クメール文明の歴史解明の有効な手段としての「建築装飾」としての「彫刻」が重要な意味を持つ。

まぐさ石は、入口上部の重い石壁を受けるために挿入された構造材であるが、下図のように構造材としての「機能本位のまぐさ石(Functional Lintel)」と「装飾目的のまぐさ石(Decorative Lintel)」に分けられ、「装飾まぐさ石」は寺院正面を装飾するだけでなく、寺院の個性を表現する重要な役割を果している。



5、装飾まぐさ石の面白さ

クメール遺跡を見る面白さの一つに装飾まぐさ石の彫刻があげられる。その彫刻の美術様式により次項に示した「クメールのまぐさ石の年代別様式」ように年代を13に区分出来、寺院の作成年代が推測できる。

また、クメールの職人達はまぐさ石をキャンバスに見立てて、自らの腕を振るって芸術性豊かな彫刻を施した。それは現在も鑑賞する我々に当時と変わらず、新鮮な感動を与えている。



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